Aceであるオタクとしての所感

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以前noteに載せていた記事を移しました。

 

ユリイカ』2020年9月号「特集・女オタクの現在」にざっと目を通した。

「女オタク」にまつわる言説において「セクシュアリティ」の議論となると、その多くが恋愛や性愛を積極的に楽しむ立場から語られていると感じた。(これは「女オタク」の場合に限らず、ほぼ日常の出来事だが…)

私はAceを自認するオタクだ。主に英語圏のドラマを中心に鑑賞し、韓国のアイドルを応援している。親密でロマンティックな関係を描いた作品は好きだし、そういったファンフィクションも時々見る。しかしカップリングやシップに対してそれほど積極的でないため、大体は物語の構造やキャラクターの単体の人物像に引かれることが多い。それでも推しがいて、作品について語ったりしながら楽しくやっている。

吉澤夏子の「個人的なものの領域」の議論を参考にするならば、「オタクの営みはすべて、対象への愛の確認と表現について捧げられている、つまりセクシュアリティのありかと強く結びつている」。そして、吉澤は「腐女子」と「夢女子」を分析している。「女オタク」特集の他の論考の中でもセクシュアリティをめぐるものが複数あり、面白く読んだ。

ここで指摘したいのは、オタクの活動がセクシュアリティのあり方と分かち難いとする一方で、そこに恋愛、性愛を求めないセクシュアリティの視点が圧倒的に欠如しているという点である。異性愛/同性愛を問わず、しばしばファンフィクション等のオタクの活動において性愛が強制される。Ace/Aroはまだまだ表象が少なく、クィアという文脈の中でもマイノリティである。

Ace/Aroは比較的フォビアの対象になることが少ない。けれども黙っていればいとも簡単に性愛に取り込まれてしまうし、指摘しても「まだ出会いがないだけ」「運命の相手」などという言葉で否定される。じわじわと自らを削られていく感覚だ。

オタク活動を通じて主体性を獲得する点は賛成するし経験もある。私はイギリスBBCSHERLOCKに高校時代ハマり、それを糧にして今はクィア批評とイギリス美術史を勉強する大学院生をやっている。このドラマの話は長くなるので書かないが、私がハマった理由の一つは主役のシャーロックが私のセクシュアリティに近いと思えたことにある。セクシュアリティを語るときに必ずしも性愛に依拠しない。それが今回の「女オタク」特集ではきちんと触れられていなかったし、これは普段から感じている疎外感と一致している。