2023年、やりたいことリスト


修論の締切に追われて年末と年始の境目がわからず、そこから修論を提出して部屋の契約をし、口頭試問をなんとか乗り切り、ついには入社もしてフルタイムで働き始めるという怒涛の1月を乗り越えて、ほっとしている。仕事の方は「アシスタント」といえば少し格好がつくものの、基本的には雑用係で、やって損はないがあまり本腰を入れたくないというのが正直なところである。そのため、やりたいことをリストアップして少しでも自分の生活に他の道があることを意識させておきたい。思いついたらまた随時追加していくかも。

 

1、引っ越しをする

これはもう確定で、水回りを犠牲にして日当たりの良い広めの1DKを見つけて、無事にに住めることになった。生活の拠点を移すことは楽しみだが、諸々の手続きが面倒だしお金が無限にかかることがネックだ。

 

2、zineを作る

去年はzine「A is OK.」のおかげで色々な出会いや機会を得ることになり、とてもありがたかった。感想をもらうと純粋にとても嬉しいし、これからも読み続けたいと言ってもらえるとお世辞でも自信がつく。今年も最低でも一冊は作りたい。そしてサークルの方でも何か文章を出したい。テーマは未定なので、読みたいものがあれば言ってください。

 

 

3、論文を書く

修論をブラッシュアップしてまとめたものを論文集に出す予定。正直なところ研究に向いているか不明だが手放したくはない。

 

4、IELTSを受ける

結局去年も色々と理由をつけて受けなかったので、そろそろ取り組みたい。別にIELTSでなくてもいいのだが試験みたいな具体的なイベントがないと絶対に勉強しないし、テクストもいくつか買ってあるので、ぼちぼち試験の申し込みをしようと思う。

 

5、旅行する

先日手帳を確認したら最後に旅行らしい旅行をしたのは2019年の3月に台北に行ったのが最後だった。なんとか状況が許せば、どこか少しだけ遠くに行きたい。

 

6、お金の管理をする

元々貯金が好きなのだが、支出を数えるのが苦手。去年はストレスの吐口を服を買うことに見出していたのでかなり赤が出ている。しかも格安の大学寮を出るので、余計にお金の管理をする必要がある。ついでに早いところ賃上げしてくれ。

 

7、運動する

フルタイムで勤務を始めてからあまりの体力のなさに帰宅するとベッドに直行して気絶している。挙句の果てには、自転車に乗ると貧血を起こす始末。去年から腰痛がひどくなってしまったことと元々膝があまり良くないことを鑑みると、やはり泳ぐのがいいのだろう。幸い引っ越し先の近所に公営の温水プールがある。

 

8、日記をつける

Twitterがなくなるかもしれない騒動の時に移行先の一つとしてTumblrのアカウントを復活させ、いまはそこにポツポツと気が向いた時に日記を書いている。かなり気まぐれだが、後で読み返すと面白い。続けられるところまでやってみたい。

 

9、イベントに行く

去年は、やはり現地で直接生まれる出会いの面白さはあるよなあと実感した。気になるものはできるだけ足を運んで行きたい。

 

10、予定を管理する

注意欠陥の傾向があり予定管理が苦手で、物事の優先度を決めるのが苦手なのだが、うまいこと自分に合う予定管理の方法を見つけるのが今年の目標。今は、基本の予定管理は手帳に書き込んで、目の前の細々としたやることはポストイットに書いて終わったら捨てる方法を試している。

街に出て、フェミニズムを叫ぶ

3月8日の国際女性デーに合わせて、2019年のウィメンズマーチ東京に参加したときのことを書いたエッセイを公開します。この日が「女性に感謝する日」にとどまらず、「女性」としての経験を共有し、その多様さと複雑さを認め、性差に基づくあらゆる差別に対して社会全体として向き合う日になってほしいと思います。

 

 

街に出て、フェミニズムを叫ぶ

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2019年3月8日、とても寒い夜だった。私はウィメンズマーチ東京にボランティアとして参加していた。マーチは国際連合大学前からスタートして表参道を通り、原宿から渋谷駅へと進み、またスタート地点へと戻るという渋谷の街をぐるりと一周するコースだ。私の当日の役割先導車に乗り、スピーカーでデモのコールをすることだった。デモの参加は初めてだったこともあり、重大な任務とんでもく焦った。

デモ行進の途中、緊張と寒さで手足はほぼ感覚を失っていた。車には運転手の男性と二人きりだった。先導車は隊列の数メートル先にいて、車の窓を開けているものの車上のスピーカーからは大音量で音楽が流れていたので後方のシュプレヒコールはあまり聞こえな。「孤独」である。加えて、とにかくしっかり任を務め上げねばと必死で、記憶があまりない。(天性のリズム感の無さにより、テンポが合っていないと指摘されたことは覚えている。)正直、かなり大変だった。マーチ後の集会ではほとんどぐったりしていた。

 

しかし、後から思い返すと、東京・渋谷の街に自分の声が響いていたということに驚きと誇らしさを感じる。毎日の生活の中の性差別に対して、それを文字通り大きな声で言葉にして発することは人生で初めてだった

大学でフェミニズム批評を学び、卒業論文フェミニズム美術史で書いた。Twitterでもフェミニストを名乗っていたし、時々友人とジェンダーについて話すこともあった。しかし、ほとんどは書かれた文字ベースで私はフェミニズムに触れてきた。いざ音声として「自分はフェニミストである」と主張することは、いざやってみようとすると難しかったし、抵抗があったことは確かだ。

 

 20歳で選挙権を得てから選挙の際は必ず投票に行っている。それでも自分がデモのような社会運動に参加することは考えていなかった。アメリカや韓国、台湾などのデモの報道を見て、賞賛し羨ましがっている割には自分が街頭に出て声をげるイメージを持っていなかった。声をあげた途端、「自分とは違うだと勝手に線引きしていた。

ウィメンズマーチに参加したきっかけは、学部を卒業するタイミングで自分の矛盾に気がついていながらもう何年も運動としてのフェミニズムに参加を躊躇っていたのをやめようという考えだった。ベル・フックスは『フェミニズムはみんなのもの』の中で、フェミニズム運動の道は一つではないと言う。どこでも自分のいる場所で活動できる、と。それは、自分のいる場所以外の運動を知り、尊重することで成り立つはずだ。だから、連帯して、街を歩こうと思った。

 

私の参加した年は、2018年にお茶の水女子大学トランスジェンダー女性の受け入れを発表してから初めてのマーチであり、Twitterではトランスジェンダーへの偏見、差別が横行していた。準備段階でトランスジェンダー差別を扇動するようなプラカードを持ってマーチに参加することを表明している人がいるという情報もあった当事者の感じる恐怖に比べれば私のものなど取るに足りないが、それでもその場に居合わせることを考えたら怖気づいた。恐怖は分断の格好の道具である。恐怖は壁を作らせ、手を取れるはずだった者同士を憎悪や、はたまた近づかないでおこうと無関心に陥らせる。

映画『パレードへようこそ(原題:PRIDE)』には、「自分より遥かに巨大な敵と闘っているときにどこかで見知らぬ友が応援してると知るのは最高の気分」という台詞がある。マーチにボランティアとして少しだけ運営に関わり、私が知らないだけでさまざまな人たちが長い時間をかけて性差別の問題と戦っていることを目の当たりにした。実行委員会の代表は「マーチの参加者と一緒にコールをしたり、参加者それぞれのプラカードを見ることで、それが社会的な構造や差別・暴力の問題であることに気がつくことができるはずだ」と語っていた。私たちは、自分のために、そして見知らぬ誰かのために街を歩き、声をあげる。これを読んだ人も、是非フェミニズム運動に参加してくれると嬉しい。

 

「欲望を取り戻すー燃ゆる女の肖像における「まなざし」と「身体」」

5月の文学フリマで出した夏のカノープス『水と空気とフェミニズム』に掲載した「欲望を取り戻すー燃ゆる女の肖像における「まなざし」と「身体」」です。おかげさまで『水と空気とフェミニズム』が売り切れてしまったこともあり、どこかにこの批評を残しておきたいと思い、お願いしたところ許可をいただけたのでこのブログに載せます。

 

映画のネタバレが含まれているので未見の場合は注意してください。

 

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「欲望を取り戻すー燃ゆる女の肖像における「まなざし」と「身体」」

  

  フランス印象主義を代表するメアリー・カサットが描いた≪桟敷席にて≫(1878年)という作品がある。この絵画は、劇場の桟敷席からオペラグラスを構えて真っ直ぐに前方を見つめる黒いドレスの女性が手前に描かれている。その奥、後景にはオペラグラスで身を乗り出して明らかに舞台ではなくこちら側の女性を見る背広の男性がいる。19世紀後半のパリではオペラや演劇鑑賞はブルジョワジーの新しい娯楽であり、重要な社交の場であった。桟敷席は舞台鑑賞には適しておらず、そこは劇場内を見渡し、さらに自らを誇示するための席であった。そこでブルジョワ男性たちは舞台上の女性だけでなく、観客の女性たちを欲望の眼差しを持って吟味し、それに応えるべく女性たちは着飾った。カサットの作品は「見る男性」と「見られる女性」という構図を意識的に描きこんでいる。しかし、男性の視線に無防備に晒される一方で、カサット自身が「女性画家」であることも含めて、女性も見る主体であることを同時に提示する。

 

 セリーヌ・シアマ監督、映画『燃ゆる女の肖像』(仏、2019年)のラストシーンは明らかにメアリー・カサットの≪桟敷席にて≫を意識している。オーケストラの演奏するヴィヴァルディ「四季:夏」を聴きながら前方を直視する女性、エロイーズの姿で物語の幕が下りる。ゆっくりとクローズアップしていき、肩を上下させながら静かに、時に苦しげに、時に笑みを浮かべながら涙を流す横顔を約2分間にわたって撮影している。この熱い視線で彼女を見つめているのは男性ではない。視線の持ち主はかつての恋人である女性、マリアンヌだ。「見る」主体は女性であり、さらにここでは「見られる」女性であるエロイーズは客体に留まらず意識的にマリアンヌに自らの姿を見せている。

 

 『燃ゆる女の肖像』は女性同士のロマンスを通じて、徹底して「まなざし」の欲望を扱った映画である。舞台は18世紀フランス。画家マリアンヌは結婚を控えた伯爵家の娘、エロイーズの肖像画の依頼を受けてブルターニュ地方の孤島の屋敷を訪れる。マリアンヌの前任者であった男性画家は、エロイーズが一度も顔を見せなかったため肖像画を完成させることができなかった。そのため、マリアンヌは画家であることを伏せ、散歩の付き添い人として振る舞い、隠れて肖像画を描くように頼まれる。散歩の相手としてエロイーズを観察し、館に戻ると記憶を元に肖像に取り掛かった。しかし、盗み見による一方的な画家の視線によって完成された肖像画をエロイーズは強く拒否する。ふっくらとして柔らかい頬やわずかに微笑んだ柔和な表情は、男性に見られるための記号としての若い女性像であり、エロイーズは「これは私ではない」と主張する。そして、彼女は画家の前でモデルになることを申し出て、描き直しを要求する。キャンパスを挟んで向き合ったマリアンヌとエロイーズは視線を交わすことで、マリアンヌから一方的に見られているだけでなくエロイーズもまたマリアンヌを見、そして観察していたことが明かされる。西洋美術の伝統の中で「見る」という行為は常に「男性」の特権とされ、「見られる」のは「女性」の役割であった。1981年にグリゼルダ・ポロックとロジカ・パーカーが明らかにしたように「巨匠 Old Master」の女性形は決して「巨匠」を意味せず、「芸術家」概念そのものから女性や非白人を締め出してきた。男性芸術家にとっての他者、すなわち女性や非白人は一方的に眼差しの対象として消費される。マリアンヌとエロイーズのまなざしの交差は、ジェンダー化された「画家/モデル」の「見る/見られる」という非対称な関係が鮮やかに解体される場面である。

 

 さらにこの映画では、「見られる」客体を主体として反転させるためにギリシャ神話「オルフェの冥界下り」の物語を援用する。亡くなった妻エウリュディケを取り戻すために冥界に入った詩人オルフェは、得意の竪琴によって妻を連れて帰ることを許される。条件として、地上に着くまで決してエウリュディケを見てはいけないと命じられる。振り返れば永遠に彼女は失われる、と。しかし、オルフェは地上に着く直前、振り返ってエウリュディケを見る。それが二人の最後の別れとなった。劇中、「オルフェの冥界下り」をエロイーズとマリアンヌ、そして女中のソフィーとで朗読をし、議論をするエピソードが挿入される。「オルフェは芸術家として妻を記憶するためだったのではないか」と主張する画家・マリアンヌに対し、エロイーズは「エウリュディケは最期に自分を見て欲しかったのではないか」と解釈する。このそれぞれの意見をふまえ、エロイーズとマリアンヌの別れの場面で再び「オルフェの冥界下り」が引用される。肖像画を描く仕事が終わり、屋敷を後にするマリアンヌが決してエロイーズを見まいと急ぐのに対し、エロイーズは呼び止めマリアンヌを振り向かせる。「自分を見て、記憶して欲しい」と言わんばかりに。たとえ破滅をもたらすとしても「あなたに見られたい」というエロイーズの欲望は、映画のラストシーンに繋がっている。

 

 

 混じり合うのは彼女たちのまなざしだけではない。それはヌード画においても実践されている。別れが近づく朝、マリアンヌのためにエロイーズは本の28ページにヌードの自画像を描く。そこではマリアンヌを目の前にモデルとしてポーズをとらせ、股の部分に置いた丸い鏡に自分の顔を映して自画像として描くという構図が採られている。記憶を元に描かれた最初の肖像では、エロイーズがマリアンヌの代わりにドレスを着てスツールに腰掛け、床に置いた四角い鏡に首から下のみを映していた。この最初の肖像画の場面は、ドレスの皺を確認するためのものであり、その上に描かれるマリアンヌの顔は「若い美しい女性」としてのある種のフィクションである。対して、明るい朝の光の中、穏やかで解放的な雰囲気で行われるヌードデッサンは、二人の身体が溶け合い一つになる。そして、極めて性的な緊張感を漂わせながらも、決して他者の好奇に対象とされない二人だけの喜びとして表現されている。

 

 鏡と室内で横たわる女性ヌードのポーズからは、17世紀スペインの画家ベラスケスの描いた《鏡のヴィーナス》(1647年-1651年頃)を彷彿とさせる。《鏡のヴィーナス》は、ローマ神話の女神ヴィーナスが裸で横たわり、息子クピドの差し出す鏡に見入っている背中が描かれている。鏡に映る顔は不明瞭であり、鑑賞者の視線の前に無防備に投げ出されたこの女性ヌードは個性が抹消された理想的な欲望の対象として存在することを容易にしている。このような官能的な女性のヌードの多くは、歴史的に社会的エリート層の男性たちの私的空間を飾るために注文された。男性画家による男性鑑賞者のための異性愛規範に基づいた性の客体としての女性ヌードである。クールベの《眠り》(1866年)のように女性同士の親密な様子を描いた作品も存在するが、これは男性パトロンが見て楽しむために製作された経緯がありレズビアン女性を性的に消費するものである。

 

 また、ベラスケス《鏡のヴィーナス》はフェミニズム運動と関わりが深い作品である。《鏡のヴィーナス》は1906年からイギリス、ロンドンのナショナルギャラリーに所蔵されており、1914年に戦闘的な婦人参政権論者メアリー・リチャードソンによって作品がナイフで切りつけられる事件が勃発した。リチャードソンの行動の是非はここでは問わない。美術史家リンダ・ニードによれば、重要なのはこの事件がもたらした「逸脱した」「芸術の破壊者」としてのフェミニストのイメージである。『燃ゆる女の肖像』での《鏡のヴィーナス》の引用は、「巨匠」たちの美術史への目配せをすると同時に、その歴史の中で女性を一方的に客体化してきた女性ヌードへの抵抗であり、レズビアン女性の性の主体を取り戻すための表現として使われ、これは「逸脱した」「芸術の破壊者」としてのフェミニストイメージへの皮肉として機能する。

 

 さらに、ヌード画は女性が芸術家として成功できなかった原因の大きな要因の一つでもある。西洋美術の歴史において人間の身体は常に主題の中心であった。ある時期までは古代神話やキリスト教聖書、歴史的出来事を扱った歴史画が主題のヒエラルキーの最高位であるとされ、歴史画を製作する上で人体表現は重要な要素であった。そのため、一流の画家として認められるためはヌードを描くことが不可欠だった。しかし、公的な美術教育では肝心のヌードデッサンの場から女性たちは締め出されていた。そのため、マリアンヌも言及するように女性に相応しい主題は肖像画静物画といった限られたものであり、それらは歴史画よりも下位のジャンルである。女性が画家として認められることは、制度として阻まれていたのだ。マリアンヌは画家の父の元に生まれ、家庭内教育で絵画を習得したことが窺える。女性がプロフェッショナルな画家として金銭報酬を得るにはマリアンヌのような経歴が多かった。また、映画後半、マリアンヌがサロンに父の名で出品している場面、より高級な芸術として評価されるための戦略であることが分かるだろう。

 

『燃ゆる女の肖像』の女性ヌードは、男性を性的に喜ばせるものでもなく、男性の創り上げた芸術の制度の中で認められるためでもなく、クィアな女性たちのためのものとして在る。それは、あくまでマリアンヌがエロイーズのために描いたヌードであり、その全貌は鑑賞者には明かされない。屋敷での別れの後、サロンに出展された子供と並んで描かれるエロイーズの肖像では、彼女はヌードの描かれた28ページに指を挟んで二人だけの秘密を仄めかす。サロンはまさに家父長的なアカデミー制度の権威を支える一角であり、この暗示はささやかながら大胆で精いっぱいの抵抗である。

 

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 私たちは、28ページの意味を、マリアンヌとエロイーズの燃えるような慕情を知っている。しかし、その情熱はエロイーズの婚約を破棄し、マリアンヌが一人の芸術家として認められ、女性同士で支え合い、二人で生きていくことを可能にはしなかった。彼女たちの静かで確かな欲望の炎は、理不尽で差別的な制度そのものを燃やすことはできない。『燃ゆる女の肖像』の描こうとした物語は、そうした抑圧の中で女性が女性を愛し、いかに自らの欲望の主体となり得るのか、というものである。その方法としてこの物語では、女性たちが歴史的に奪われてきた「まなざし」と「身体」を取り戻すことによって行われている。映画の冒頭に登場する絵画《燃ゆる女の肖像》―明るい月夜の草原にドレスの裾が燃えている女性像―は、互いを通じて発見された欲望の主体としての象徴である。

 

参考

ニード、リンダ『ヌードと反美学-美術・猥褻・セクシュアリティ』(藤井麻利, 藤井雅実訳)、青弓社、1997年。

パーカー、ロジカ・ポロック、グリゼルダ『女・アート・イデオロギー フェミニストが読みなおす芸術表現の歴史』(萩原弘子訳)、新水社、1992年。

Packard, Cassie,. In ‘Portrait of a Lady on Fire’, Looking is a Dangerous Act, FRIEZE, 18 Feb 2020. (2021年4月16日最終アクセスhttps://www.frieze.com/article/portrait-lady-fire-looking-dangerous-act )

シアマ、セリーヌ(監督、脚本)『燃ゆる女の肖像』、2019年。

人文学系大学院生の金策日記

修士課程2年分の授業料の目処がたったので、簡単にまとめてみます。

 

結論から言ってしまうと、

授業料半額免除+学内の給付型奨学金(1年目27万+2年目18万=45万)と去年の学生支援緊急給付金(10万)でほぼ全額なんとかなりました。

 

私は選考が比較的ゆるい学内の奨学金をもらっているので、多くの人に参考になる部分はあまり多くないかと思います。とにかく学内の奨学金担当窓口に相談して情報をもらうのが一番です。

 

基本情報

現在、都内の某国立女子大学の博士前期課程(修士)2年目で、美術史を勉強しています。大学の院生向けの寮に住んで生活費と学費は全て自分で賄っています。両親からの経済的な支援はありません。

 

もともと大学院に進むなら自分で学費を出すように言われていたため、学部を卒業してから1年間は実家に住んでフリーターとしてパートタイムで貯金をしながら院試の勉強をしていました。新しく学費用の口座を作ってそこに毎月3万ずつ、多く働いた月は少し多めに振り込んだりして大体50万を用意しました。今もだらだら3万ずつ貯金を続けています。

 

大学院選びの時点で自分で学費が払えそうなところ、そして実家を出たかったため寮があるところを探して、現在の所属に至ります。

 

授業料半額免除

国立大学には「授業料減免制度」があります。

半期ごとに書類を用意して申請しなければいけないのでかなり面倒ですが、半額免除をしてもらって半期で約13万にしてもらっています。学部からの成績を含めた「学力基準」と世帯の「家計基準」で採用が決まるようですが、統一された明確な基準はなく、各大学によって違うと思います。参考までに、私は学部時代の成績は優秀で、親の収入は平均より少し下ぐらいです。

 

ここで1番の障壁は家計を同じくしている人間全員分の住民票の写しと収入の証明書が必要なことです。世帯を分けて住民票を移しているのですが、父の扶養に入っているために家族分の書類が要ります。源泉徴収票と税証明をもらうために半期に一度毎回律儀に喧嘩をしています。親子の仲が悪い場合はかなり大変です。

 

奨学金

学部時代は日本学生支援機構の貸与型奨学金という名の借金で学費を払っていましたが、かなり痛い目を見たので修士は絶対に給付型の奨学金を希望していました。

 

学内には予約型のものか理系の学生向けがほとんどだったため民間の奨学金に申し込むつもりで情報を探していたところ、去年度からCovid-19感染拡大に伴う支援のための新しい学内奨学金が設置され運良く条件が合ったため申請して採用されました。2年目も同様の奨学金が設置されたため申し込み、先日採用の通知をもらいました。1年目は27万、2年目は少し額が少なくなって18万、合計45万をもらっています。

 

学内奨学金は民間の奨学金ほど採用の競争率が高くなく、用意する書類も少なくて済むので条件に合うものがあればかなり狙い目です。しかしここでも人文学系が申し込めるものは少ないです。

私は利用しませんでしたが、日本学生支援機構の貸与型奨学金も第一種であれば院生は成績優秀者の返済免除制度があるので検索してみてください。

 

2020年度には「学生支援緊急給付金」で10万円の支給も受けました。

ただこれは本当に条件が厳しくて、ダメ元だったのですが奇跡的に条件をクリアして受け取ることができました。留学生の成績要件や朝鮮学校の排除などで話題にもなりましたが、こんなに限定的な支援でもとにかくこの国は教育に金を出したくないのだということがはっきりわかりました。

 

バイト

生活費は基本的にアルバイトで賄っています。大学寮の家賃が恐ろしく安いので節約しつつなんとかやれていますが、民間の賃貸では無理です。あと幸い料理が苦ではないため基本は自炊をしています。

 

現在は、TA、大学の事務バイト、塾講師バイト、有償インターンをそれぞれ週1のペースでしています。インターン以外はどれも拘束時間が短いので梯子したり勉強の合間に作業したりしています。しかしタイムスケジュールリングが苦手なので結構辛いです。

今年修論を書く予定なのでもっと勉強の時間を確保したい…ティファンヌ・リヴィエールの『博論日記』にも同じようなエピソードがありそれを思い出しながら辛くなっています。誰かいい方法があれば教えて欲しい。本当に。

 

 

 

 

 

 

 

Marriage as an Economic Proposition in Little Women (2019)

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アカデミックライティングの授業で書いたエッセイを公開します。

2019年公開のグレタ・ガーウィグ若草物語での女性にとっての経済問題としての結婚について取り上げました。

 

文法の間違いや論の展開が変だったりしますが、今後の語学力向上のために晒します。

 

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Marriage as an Economic Proposition in Little Women (2019)

 

              A woman stands at the door of an office. We hear her breathe deeply, then she jumps into the world of men, and she brings a newspaper editor her script to sell her novel. The woman, Jo March, is the one of most famous female characters in literature and this is the first scene of the movie, Little Women (2019), a new adaptation of Louisa May Alcott’s novel, which was originally published in two parts in 1868 and 1869. The screenwriter and director is Greta Gerwig, who is only the fifth woman ever to be nominated for an academy award for best director for her first movie, Lady Bird (2017). Gerwig reinvented the classic story, Little Women, for a new generation by focusing on financial independence for women.

              Louisa May Alcott’s Little Women is classified as a semi-autobiographical novel. Its first part, which depicts the growth of teenage sisters―Meg, Jo, Beth and Amy living in genteel poverty in Massachusetts in the 1860s―was a smash hit both commercially and critically. The second part was titled Good Wives and shows the end of girlhood and the start of adulthood, beginning with Meg’s marriage. After that, the story describes the death of Beth; the marriage of Amy and Laurie, who is a rich boy living next door to the March girls and is Jo’s best friend; and finally, Jo’s marriage to an old German man, Professor Bhaer. There are two sequels, and in these books Jo and Professor Bhaer have two boys and run a boarding school for boys.

              The novel, Little Women has been translated into many languages, and has been frequently adapted for stage and screen all over the world. Mori (2020) explained that most of adaptations in the US and the UK represent the story as a Bildingsroman, a loud and wild tomboy grows up to a respectable married woman through various difficulties, and it has been related with feminism. Greta Gerwig’s new adaptation also describes women’s life from a feminist perspective as before, but she will not force Jo get married with anyone. The change from the original novel and other adaptations indicate that Gerwig has a very clear and strong message about the relationship between marriage and female financial independence in her movie.

              The famous opening of Pride and Prejudice, Jane Austen’s prominent romantic novel published in 1813, gives us a better understanding of the connection between marriage and female independence in the 19th century.

 

It is a truth universally acknowledged, that a single man in possession of a good fortune, must be in want of a wife.

However little known the feelings or views of such a man may be on his first entering a neighbourhood, this truth is so well fixed in the minds of the surrounding families, that he is considered the rightful property of some one or other of their daughters.

(Austen, Pride and Prejudice)

 

 

This part has been interpreted as great irony. In Austen’s era women had only limited rights and could not inherit property. Therefore, it was considered an imperative for an underprivileged woman to marry a well-off man. Thus, “a truth universally acknowledged” casts light on the true nature of marriage―it is a strategy for women to survive in patriarchal society.

              In the latest adaptation of Little Women, marriage as the financial strategy is carried out in the storyline of Amy, who used to be depicted as a childish character and was often misunderstood. While sacrifice is the important theme throughout the book, Amy seemed to be more spoiled than other older sisters because she could accompany her Aunt March to Europe instead of Jo without trying. To pursue Amy’s behavior deeply, however, the new movie suggests that she was conscious of her duty to marry a rich man through her childhood anxieties and understanding of adulthood practicalities. Amy insists clearly that she is not ashamed of her desire to marry a rich man because marriage is an economic proposition. This is reflected in Rao’s (2019) observation, that “As an adult, Amy’s pursuit of wealth matures into one driven not by materialistic self-interest, but by a realistic view of how the world operates.”

              In contrast to Amy, Jo’s strategy of marriage is much more complicated in the new Little Women. When Jo attempted to sell the novel about her life and her sisters―it is titled exactly Little Women―to an old editor, he insists that the heroine must get married to someone in the end. He said, “Girls want to see women married,” and ” If you end your delightful book with your heroine a spinster, no one will buy it. It won’t be worth printing.” Eventually, Jo agreed to the change in exchange for 6.6 percent royalties and the ownership of her own copyright. As a result, in the ending of her novel we are served an exaggerated and emotional romantic fantasy in which Professor Bhaer kisses Jo in the rain. It is obvious that this metafiction structure reflects Louisa May Alcott’s life, who never married and whose work based on her own life achieved commercial success. Using the prejudice and the stereotype of female characters in the 19th century, Gerwig brilliantly turns marriage into the advantage for negotiation. In this way, Gerwig points out the marriage strategy by unmarried female artist, which had been overlooked.

              Consequently, Little Women in 2019 reveals that marriage was certainly inseparable from women in patriarchal capitalist society even from unmarried women. While the fact leads to suppress various ways to live for women, Gerwig represents their strategies of how to establish financial independence in the restriction. Especially the new story of Jo shows a disturbance of the historical framework-creativity has been characterized as masculine, not as feminine. As this constructed true means women’s role was within the domestic sphere, which was closely intertwined with amateur art, they were struggling to gain recognition within the professional art world. Giving the unequal fact, it is remarkable that a spinster wins success as a professional writer in the new Little Women.

              According to the interview of The Economist, Gerwig referenced the famous essay Room of One’s Own (1929) which written by the English modernist writer Virginia Woolf and said that, “to write you need a Room of One’s Own and money. She (Woolf) said you need money. And she said the question is not why are there no great women writers, the question is why have women always poor. Because poetry depends upon intellectual freedom and intellectual freedom depends upon material things.” Gerwig always has conscious of material things, and this is the reason why the classic story vividly revives in 2019.

 

References

Austen, J. (1813). Pride and Prejudice.

Gerwig, G (2019). Little Women (screenplay).

  https://variety.com/wp-content/uploads/2019/12/little-women-by-greta-gerwig.pdf

Mori, A. (2020). Little Women on Screen : What the Film Adaptations of the Little Women Series Have Not Depicted[スクリーンの中の『若草物語』 ―映画・アニメ版『若草物語』が描かなかったもの―]. Journal of College of World Englishes, 25, 31-47.

Rao, S. (2019, Dec 26). Greta Gerwig’s ‘Little Women’ understands Amy March, The Washington Post.

  https://www.washingtonpost.com/arts-entertainment/2019/12/26/greta-gerwigs-little-women-understands-amy-march/

 

The Economist Radio (2019, Dec 21). The Economist Asks: Greta Gerwig. The Economist (Podcast).

https://play.acast.com/s/theeconomistasks/theeconomistasks-gretagerwig

 

2021年、やりたいこと

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明けましておめでとうございます。とはいえ、いまだ2020年の延長を過ごしているような感覚です。他人の目に触れた方がモチベーションを保てるのではという理由から昨年もやりたいことリストを公開したので今年も書きます。読み物というよりは本当に自分のためのリストです。

 

 

1.修士論文執筆

どんな道に進むとしてもこれをやらなければ始まらない。女性芸術家と空間について、自分なりの議論をまとめたい。

 

2.進路を決める

博士課程に進学するか、就職をするか絶賛迷っている。修士の1年間のほとんどを部屋に籠もって過ごさざるを得ない状況だったため(そして2年目もそうなるだろう…)消化不良である一方で研究を続けるスタミナに自信がない。同じ悩みを持っている人は是非共有したいのでTwitterでもなんでも話を聞かせて欲しい。

 

3.英語学習

先日、行方昭夫『英文の読み方』を読み、己の読解力不足を痛感。読解に力を入れて取り組む。

 

4.IELTS6.5

去年と同じ目標なのは全く試験を受ける意欲が湧かずそのまま何もせずに一年が過ぎて行ったからです。

 

5.読書会に参加する

これも去年できなかった項目。そもそも読書が捗らなかった。文学作品の会に出てみたい。

 

6.美術館インターン

まずは早く申請書類を作らないといけないのだが、正月ボケかなかなか筆が重い。

 

7.散歩をする

この時世の中、健康が何よりも重要であることを理解しつつ自堕落な毎日を過ごしてしまっている。まずは週に3日ぐらいの頻度で散歩を取り入れたい。

 

8.貯金

金があると安心するので…。とは言いつつも大学院生が常にお金の心配をして過ごさなければならない社会には中指を立てていきます。早くベーシックインカムを導入しろ

 

9.部屋を整える

去年は引っ越しをし、念願の「自分ひとりの部屋」を手に入れた。この状態を維持しつつ、出来る限り自分の過ごしやすいように手を入れる。

 

 

 

 

 

Aceであるオタクとしての所感

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以前noteに載せていた記事を移しました。

 

ユリイカ』2020年9月号「特集・女オタクの現在」にざっと目を通した。

「女オタク」にまつわる言説において「セクシュアリティ」の議論となると、その多くが恋愛や性愛を積極的に楽しむ立場から語られていると感じた。(これは「女オタク」の場合に限らず、ほぼ日常の出来事だが…)

私はAceを自認するオタクだ。主に英語圏のドラマを中心に鑑賞し、韓国のアイドルを応援している。親密でロマンティックな関係を描いた作品は好きだし、そういったファンフィクションも時々見る。しかしカップリングやシップに対してそれほど積極的でないため、大体は物語の構造やキャラクターの単体の人物像に引かれることが多い。それでも推しがいて、作品について語ったりしながら楽しくやっている。

吉澤夏子の「個人的なものの領域」の議論を参考にするならば、「オタクの営みはすべて、対象への愛の確認と表現について捧げられている、つまりセクシュアリティのありかと強く結びつている」。そして、吉澤は「腐女子」と「夢女子」を分析している。「女オタク」特集の他の論考の中でもセクシュアリティをめぐるものが複数あり、面白く読んだ。

ここで指摘したいのは、オタクの活動がセクシュアリティのあり方と分かち難いとする一方で、そこに恋愛、性愛を求めないセクシュアリティの視点が圧倒的に欠如しているという点である。異性愛/同性愛を問わず、しばしばファンフィクション等のオタクの活動において性愛が強制される。Ace/Aroはまだまだ表象が少なく、クィアという文脈の中でもマイノリティである。

Ace/Aroは比較的フォビアの対象になることが少ない。けれども黙っていればいとも簡単に性愛に取り込まれてしまうし、指摘しても「まだ出会いがないだけ」「運命の相手」などという言葉で否定される。じわじわと自らを削られていく感覚だ。

オタク活動を通じて主体性を獲得する点は賛成するし経験もある。私はイギリスBBCSHERLOCKに高校時代ハマり、それを糧にして今はクィア批評とイギリス美術史を勉強する大学院生をやっている。このドラマの話は長くなるので書かないが、私がハマった理由の一つは主役のシャーロックが私のセクシュアリティに近いと思えたことにある。セクシュアリティを語るときに必ずしも性愛に依拠しない。それが今回の「女オタク」特集ではきちんと触れられていなかったし、これは普段から感じている疎外感と一致している。