「欲望を取り戻すー燃ゆる女の肖像における「まなざし」と「身体」」

5月の文学フリマで出した夏のカノープス『水と空気とフェミニズム』に掲載した「欲望を取り戻すー燃ゆる女の肖像における「まなざし」と「身体」」です。おかげさまで『水と空気とフェミニズム』が売り切れてしまったこともあり、どこかにこの批評を残しておきたいと思い、お願いしたところ許可をいただけたのでこのブログに載せます。

 

映画のネタバレが含まれているので未見の場合は注意してください。

 

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「欲望を取り戻すー燃ゆる女の肖像における「まなざし」と「身体」」

  

  フランス印象主義を代表するメアリー・カサットが描いた≪桟敷席にて≫(1878年)という作品がある。この絵画は、劇場の桟敷席からオペラグラスを構えて真っ直ぐに前方を見つめる黒いドレスの女性が手前に描かれている。その奥、後景にはオペラグラスで身を乗り出して明らかに舞台ではなくこちら側の女性を見る背広の男性がいる。19世紀後半のパリではオペラや演劇鑑賞はブルジョワジーの新しい娯楽であり、重要な社交の場であった。桟敷席は舞台鑑賞には適しておらず、そこは劇場内を見渡し、さらに自らを誇示するための席であった。そこでブルジョワ男性たちは舞台上の女性だけでなく、観客の女性たちを欲望の眼差しを持って吟味し、それに応えるべく女性たちは着飾った。カサットの作品は「見る男性」と「見られる女性」という構図を意識的に描きこんでいる。しかし、男性の視線に無防備に晒される一方で、カサット自身が「女性画家」であることも含めて、女性も見る主体であることを同時に提示する。

 

 セリーヌ・シアマ監督、映画『燃ゆる女の肖像』(仏、2019年)のラストシーンは明らかにメアリー・カサットの≪桟敷席にて≫を意識している。オーケストラの演奏するヴィヴァルディ「四季:夏」を聴きながら前方を直視する女性、エロイーズの姿で物語の幕が下りる。ゆっくりとクローズアップしていき、肩を上下させながら静かに、時に苦しげに、時に笑みを浮かべながら涙を流す横顔を約2分間にわたって撮影している。この熱い視線で彼女を見つめているのは男性ではない。視線の持ち主はかつての恋人である女性、マリアンヌだ。「見る」主体は女性であり、さらにここでは「見られる」女性であるエロイーズは客体に留まらず意識的にマリアンヌに自らの姿を見せている。

 

 『燃ゆる女の肖像』は女性同士のロマンスを通じて、徹底して「まなざし」の欲望を扱った映画である。舞台は18世紀フランス。画家マリアンヌは結婚を控えた伯爵家の娘、エロイーズの肖像画の依頼を受けてブルターニュ地方の孤島の屋敷を訪れる。マリアンヌの前任者であった男性画家は、エロイーズが一度も顔を見せなかったため肖像画を完成させることができなかった。そのため、マリアンヌは画家であることを伏せ、散歩の付き添い人として振る舞い、隠れて肖像画を描くように頼まれる。散歩の相手としてエロイーズを観察し、館に戻ると記憶を元に肖像に取り掛かった。しかし、盗み見による一方的な画家の視線によって完成された肖像画をエロイーズは強く拒否する。ふっくらとして柔らかい頬やわずかに微笑んだ柔和な表情は、男性に見られるための記号としての若い女性像であり、エロイーズは「これは私ではない」と主張する。そして、彼女は画家の前でモデルになることを申し出て、描き直しを要求する。キャンパスを挟んで向き合ったマリアンヌとエロイーズは視線を交わすことで、マリアンヌから一方的に見られているだけでなくエロイーズもまたマリアンヌを見、そして観察していたことが明かされる。西洋美術の伝統の中で「見る」という行為は常に「男性」の特権とされ、「見られる」のは「女性」の役割であった。1981年にグリゼルダ・ポロックとロジカ・パーカーが明らかにしたように「巨匠 Old Master」の女性形は決して「巨匠」を意味せず、「芸術家」概念そのものから女性や非白人を締め出してきた。男性芸術家にとっての他者、すなわち女性や非白人は一方的に眼差しの対象として消費される。マリアンヌとエロイーズのまなざしの交差は、ジェンダー化された「画家/モデル」の「見る/見られる」という非対称な関係が鮮やかに解体される場面である。

 

 さらにこの映画では、「見られる」客体を主体として反転させるためにギリシャ神話「オルフェの冥界下り」の物語を援用する。亡くなった妻エウリュディケを取り戻すために冥界に入った詩人オルフェは、得意の竪琴によって妻を連れて帰ることを許される。条件として、地上に着くまで決してエウリュディケを見てはいけないと命じられる。振り返れば永遠に彼女は失われる、と。しかし、オルフェは地上に着く直前、振り返ってエウリュディケを見る。それが二人の最後の別れとなった。劇中、「オルフェの冥界下り」をエロイーズとマリアンヌ、そして女中のソフィーとで朗読をし、議論をするエピソードが挿入される。「オルフェは芸術家として妻を記憶するためだったのではないか」と主張する画家・マリアンヌに対し、エロイーズは「エウリュディケは最期に自分を見て欲しかったのではないか」と解釈する。このそれぞれの意見をふまえ、エロイーズとマリアンヌの別れの場面で再び「オルフェの冥界下り」が引用される。肖像画を描く仕事が終わり、屋敷を後にするマリアンヌが決してエロイーズを見まいと急ぐのに対し、エロイーズは呼び止めマリアンヌを振り向かせる。「自分を見て、記憶して欲しい」と言わんばかりに。たとえ破滅をもたらすとしても「あなたに見られたい」というエロイーズの欲望は、映画のラストシーンに繋がっている。

 

 

 混じり合うのは彼女たちのまなざしだけではない。それはヌード画においても実践されている。別れが近づく朝、マリアンヌのためにエロイーズは本の28ページにヌードの自画像を描く。そこではマリアンヌを目の前にモデルとしてポーズをとらせ、股の部分に置いた丸い鏡に自分の顔を映して自画像として描くという構図が採られている。記憶を元に描かれた最初の肖像では、エロイーズがマリアンヌの代わりにドレスを着てスツールに腰掛け、床に置いた四角い鏡に首から下のみを映していた。この最初の肖像画の場面は、ドレスの皺を確認するためのものであり、その上に描かれるマリアンヌの顔は「若い美しい女性」としてのある種のフィクションである。対して、明るい朝の光の中、穏やかで解放的な雰囲気で行われるヌードデッサンは、二人の身体が溶け合い一つになる。そして、極めて性的な緊張感を漂わせながらも、決して他者の好奇に対象とされない二人だけの喜びとして表現されている。

 

 鏡と室内で横たわる女性ヌードのポーズからは、17世紀スペインの画家ベラスケスの描いた《鏡のヴィーナス》(1647年-1651年頃)を彷彿とさせる。《鏡のヴィーナス》は、ローマ神話の女神ヴィーナスが裸で横たわり、息子クピドの差し出す鏡に見入っている背中が描かれている。鏡に映る顔は不明瞭であり、鑑賞者の視線の前に無防備に投げ出されたこの女性ヌードは個性が抹消された理想的な欲望の対象として存在することを容易にしている。このような官能的な女性のヌードの多くは、歴史的に社会的エリート層の男性たちの私的空間を飾るために注文された。男性画家による男性鑑賞者のための異性愛規範に基づいた性の客体としての女性ヌードである。クールベの《眠り》(1866年)のように女性同士の親密な様子を描いた作品も存在するが、これは男性パトロンが見て楽しむために製作された経緯がありレズビアン女性を性的に消費するものである。

 

 また、ベラスケス《鏡のヴィーナス》はフェミニズム運動と関わりが深い作品である。《鏡のヴィーナス》は1906年からイギリス、ロンドンのナショナルギャラリーに所蔵されており、1914年に戦闘的な婦人参政権論者メアリー・リチャードソンによって作品がナイフで切りつけられる事件が勃発した。リチャードソンの行動の是非はここでは問わない。美術史家リンダ・ニードによれば、重要なのはこの事件がもたらした「逸脱した」「芸術の破壊者」としてのフェミニストのイメージである。『燃ゆる女の肖像』での《鏡のヴィーナス》の引用は、「巨匠」たちの美術史への目配せをすると同時に、その歴史の中で女性を一方的に客体化してきた女性ヌードへの抵抗であり、レズビアン女性の性の主体を取り戻すための表現として使われ、これは「逸脱した」「芸術の破壊者」としてのフェミニストイメージへの皮肉として機能する。

 

 さらに、ヌード画は女性が芸術家として成功できなかった原因の大きな要因の一つでもある。西洋美術の歴史において人間の身体は常に主題の中心であった。ある時期までは古代神話やキリスト教聖書、歴史的出来事を扱った歴史画が主題のヒエラルキーの最高位であるとされ、歴史画を製作する上で人体表現は重要な要素であった。そのため、一流の画家として認められるためはヌードを描くことが不可欠だった。しかし、公的な美術教育では肝心のヌードデッサンの場から女性たちは締め出されていた。そのため、マリアンヌも言及するように女性に相応しい主題は肖像画静物画といった限られたものであり、それらは歴史画よりも下位のジャンルである。女性が画家として認められることは、制度として阻まれていたのだ。マリアンヌは画家の父の元に生まれ、家庭内教育で絵画を習得したことが窺える。女性がプロフェッショナルな画家として金銭報酬を得るにはマリアンヌのような経歴が多かった。また、映画後半、マリアンヌがサロンに父の名で出品している場面、より高級な芸術として評価されるための戦略であることが分かるだろう。

 

『燃ゆる女の肖像』の女性ヌードは、男性を性的に喜ばせるものでもなく、男性の創り上げた芸術の制度の中で認められるためでもなく、クィアな女性たちのためのものとして在る。それは、あくまでマリアンヌがエロイーズのために描いたヌードであり、その全貌は鑑賞者には明かされない。屋敷での別れの後、サロンに出展された子供と並んで描かれるエロイーズの肖像では、彼女はヌードの描かれた28ページに指を挟んで二人だけの秘密を仄めかす。サロンはまさに家父長的なアカデミー制度の権威を支える一角であり、この暗示はささやかながら大胆で精いっぱいの抵抗である。

 

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 私たちは、28ページの意味を、マリアンヌとエロイーズの燃えるような慕情を知っている。しかし、その情熱はエロイーズの婚約を破棄し、マリアンヌが一人の芸術家として認められ、女性同士で支え合い、二人で生きていくことを可能にはしなかった。彼女たちの静かで確かな欲望の炎は、理不尽で差別的な制度そのものを燃やすことはできない。『燃ゆる女の肖像』の描こうとした物語は、そうした抑圧の中で女性が女性を愛し、いかに自らの欲望の主体となり得るのか、というものである。その方法としてこの物語では、女性たちが歴史的に奪われてきた「まなざし」と「身体」を取り戻すことによって行われている。映画の冒頭に登場する絵画《燃ゆる女の肖像》―明るい月夜の草原にドレスの裾が燃えている女性像―は、互いを通じて発見された欲望の主体としての象徴である。

 

参考

ニード、リンダ『ヌードと反美学-美術・猥褻・セクシュアリティ』(藤井麻利, 藤井雅実訳)、青弓社、1997年。

パーカー、ロジカ・ポロック、グリゼルダ『女・アート・イデオロギー フェミニストが読みなおす芸術表現の歴史』(萩原弘子訳)、新水社、1992年。

Packard, Cassie,. In ‘Portrait of a Lady on Fire’, Looking is a Dangerous Act, FRIEZE, 18 Feb 2020. (2021年4月16日最終アクセスhttps://www.frieze.com/article/portrait-lady-fire-looking-dangerous-act )

シアマ、セリーヌ(監督、脚本)『燃ゆる女の肖像』、2019年。